戸越銀座商店街が起こした広報の奇跡 前編

画像左:戸越銀座商店街連合会 専務理事・広報 亀井哲郎 氏 画像右:商い未来研究所 笹井清範 氏

【戸越銀座商店街専務理事・広報】亀井哲郎氏へ【商い未来研究所】笹井清範氏がインタビュー。

戸越銀座商店街が活性化した要因について、過去・現在・未来にまで目を向けたお話が語られています。
実際に起こったことを基に、街の広報とはなにか、何が必要で、どんな効果をもたらすのかを知ることができます。
街の発展を願う方、商店街関係者の方は是非ご覧ください!


(内容は前・中・後の3編で配信)


テレビ局や新聞社、広告代理店や映画制作会社などから毎日のように問い合わせが入り、取材や撮影の相談が後を絶たない商店街があります。しかし、以前は商店街を取り上げたニュースやロケーションの舞台に採用されることなどほとんどありませんでした。

「知名度もなければ、何もない商店街でした」と振り返るのは、戸越銀座商店街連合会専務理事として広報を担当する亀井哲郎さん。戸越銀座銀六商店街で1926年に創業した宝石・時計・眼鏡専門店「ギャラリーカメイ」の3代目として自身の商いとともに、商店街活性化に取り組んできた亀井さんに、その取り組みと「広報」の重要性についてうかがいました。

聞き手)商い未来研究所笹井清範

知名度なし、ぼろ駅舎
何もない商店街だった

——亀井さんは生まれも育ちも戸越銀座と聞いております。幼いころから商店街で育ち、その栄枯盛衰を肌で感じられてきたんですね。

現在の戸越銀座街の並み

亀井 昭和30年代、40年代という高度経済成長期であり、商店街がいちばん栄えたころに、僕は少年時代を過ごしました。夕方になると買物かごを提げた主婦が通りにあふれ、向こう側が見えないくらいでした。

 大学を出ると、宝飾品専門店の全国チェーンに勤めました。バブル絶頂期で、モノがあれば売れる時代に、専門店チェーンのビジネスを学んだのです。このころはまだ商店街に空き店舗はなく、売上げも前年を上回る店ばかりでした。それで「こんなに儲かるのなら自分で商売しよう」と6年勤めた会社を辞め、家業を継ぎました。

 すると、戻って2年目にバブルが崩壊したのです。

——バブル崩壊後、全国の商店街で来街客が減って閉店が目立つようになり、その衰退の様子が「シャッター通り商店街」と言われるようになったころですね。

亀井 それから毎年売上げ半減が続き、目に見えて景気は悪くなりました。そんな20代のころ、父が理事長だった銀六商店街振興組合の役員になりました。20代の役員は僕だけでした。

 バブル崩壊後の10年間に、戸越銀座全体の店舗数は2割も減少しました。そのころの商店街活動では、行政から言われるままに道路舗装や街灯設置などハード整備をしました。大店法緩和の見返りに補助金を出すから、街並みをきれいにして頑張れという政策です。

 それが一段落すると、季節ごとの集客事業に取り組みました。でも、すでに商店街には地元客は集まらなくなっていました。春のフラワーセールのプレゼント300鉢のうち、お客様にプレゼントできたのは100鉢だけ。残りは道を歩く人に配り、それでも残った鉢を組合員の家に届けていました。イベントの時に役員がつくる焼きそばもかき氷も、大量に残りました。

——仮に人は集められたとしても、それがお客様にならないという現象も、従来の商店街イベントでは見られるようになってきたころです。しかし、やめられない。

亀井 イベントに集まる人が回を重ねるごとに減っていきます。「もう、こんなイベントやめようよ」って若手から声が出ても、商店街の先輩たちは「代わるイベントがない限りやめられない」と言うばかりでした。

 それでもまだ、汗をかいてイベントすれば、人は戻ってくると信じていました。さまざまなイベントを試しました。お客様のライフスタイルの変化に合わせようと、他でやっている朝市やナイトバザールを真似しました。しかし人真似だと、お客様が飽きる前に商店街の商人のほうが飽きてしまうのです。1人減り、2人減り、やめてしまいました。

お客様の厳しい
“ホンネ”で目覚める

——このころから、商店街の必要性が疑問視されるようになりました。地域に人は住んでいますが、ライフスタイルが変化している。その変化に合わせようとしない商店街で買物をするのは土台無理なことだと。

亀井 共働き世帯も増えたし、学生や勤め人は朝9時に出勤し、帰宅は夜9時。一方、商店街の営業は変わらず朝10時から夜8時まで。勤め人が商店街で買物できるのは週末や祝日だけなのに、商店街は大半が休みというありさまです。

 大型店やディスカウント店に行けば、品物も豊富で価格も安い。コンビニやチェーン店なら、夜遅くまで店が開いています。

——商店街や中小商店の活性化を、今も国は政策として支援しつづけています。しかし、その前に商店街側は、「自分たちの使命は街の人たちの暮らしに貢献することだ」という責任を持って努力すべきですね。

商店街の戦略について話す亀井氏と笹井氏

亀井 買物するだけなら、商店街でなくても便利な店はいくらでもあるし、ネット通販で何でも揃う時代です。

 そこで僕は、「せめて人の集まる時には売ろう。イベントを地域のお客様に手伝ってもらうものに変えよう」と提案しました。「日曜日に7割の店が閉まる銀六商店街の店先を開放して、フリーマーケットをしてもらおう」と提案したら、大反対。

 でも、何とか合意を取りつけてやってみると、1万人ぐらいの人が来てくれ、商店街の先輩たちは「すごいこんなに人が出たのは久しぶりだな」と言ってくれました。徐々に売上げを増やす店が表れ、日曜日に店を開けてくれるようになりました。今もフリーマーケットは毎月続けています。

——しかし、イベントは一時的なにぎわいを生んでも、恒常的なにぎわいにつながらない場合もあります。

亀井 そこで次に、日常のにぎわいを取り戻すため、固定客づくりを考えました。隣の商店街が実施していたカード事業を一緒にやろうとしたら駄目で、カードで有名な商店街を視察して、イニシャルコストが安い高齢者向けシルバーカードを真似させてもらいました。会員は1000人ほど、店が思い思いのサービスをしました。うちは時計も扱っているから、イベントの時は電池交換を特別価格の500円にサービス。おばあちゃんが腕時計を10個ぐらい持ってきてくれました。

 当時の商店街の主要顧客は、営業時間に買物に来られる高齢者でした。春と秋に商店街の会場で、津軽三味線、落語を催しました。なじみの店で晩のおかずを買ってくださり、久しぶりに眼鏡をつくろうかというお客様も少しは増えました。

 でも、いくらやっても、悪くなるスピードのほうが速く、空き店舗は増え、高齢者も全部は商店街に戻ってきません。そんな折、カード会員向けイベントの時でした。500円の金券を配ったら、あるおばあちゃんにこう言われました。

 「あんたらが一生懸命やっているのはわかる。だけど、こんな金券もらったって、私の欲しいものあんたたちの商店街に売ってない」

 たいへんなショックを受けたことをおぼえています。


次回:「広報の重要性を語る 中編」を配信いたします。


戸越銀座商店街

戸越銀座商店街は東京都品川区豊町および、戸越、平塚にまたがる戸越銀座通りに沿った商店街。
総延長は直線で約1.3km。戸越銀座商栄会商店街(商栄会)戸越銀座商店街(中央会)、戸越銀座銀六商店街(銀六会)の3つの商店街からなり、戸越銀座はこの3つの商店街の総称。
1923年の関東大震災後、銀座のがれきを運び込み、低地を埋め立てたことから「戸越銀座」と命名された。全国各地にある「○○銀座」の第一号でもある。
マスコットキャラクターに戸越銀次郎(通称、銀ちゃん)がいる。

戸越銀座商店街オフィシャルサイト

亀井哲郎 氏

ギャラリーカメイ 店主
品川区商店街連合会 専務理事
戸越銀座商店街連合会 専務理事・広報

大学卒業後、宝飾品専門店の全国チェーンに勤務。
その後、家業である「ギャラリーカメイ」を継ぐ。

戸越銀座活性化のために尽力し、戸越銀座ブランドを確立。
現在も広報の観点から、戸越銀座の活性化に取り組んでいる。

笹井清範 氏

商い未来研究所代表
一般財団法人食料農商交流協会理事

”商い”をする人々の育成を目的とした「商い未来研究所」を設立。
インタビューや研修・コンサル・講演により商いにかかわる本人が認識をしていない強み課題を顕在化させ、多くの商業者を育成し排出している。

※笹井氏のメルマガは、商い未来研究所様のページより登録いただけます。